修行と さとり

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プラトンは対話集 「国家」 の冒頭でケパロスという老人にかく言わせた。

「年を取っていいことは、借りたものを返せたことと欲という恐ろしいものが
  無くなったことだ。 」

理想的な年の取り方を語らせている。

人を心身とも操るもっとも恐ろしいものであり人としての道を迷わせる元凶である
欲について語らせたのであろう。

だが、残念なことに人は生ける限りにおいてすべての欲は決して皆無にならない。
それも事実である。

ソクラテスが最後の弁明で言うように肉体が無くなっては初めて無欲の境地に至り
真の論議、議論がかなうのである。


宗教者は鍛錬、修行よって無欲に至ると言うが、それは
真の自由が真の孤独にあるがごとくであり、人間としてはあり得ないことである。

イエス キリストの伝承の様に死を目前にして自分を貶めた裏切り者の
慈悲を求め許しの懇願をするという行為は修行によっても得られるものでは無いように
思われる。。

残念であるが人は肉体がある限り本当の解脱、悟りの境地に至ることはない。

人には至福の心身の安泰は不可能なのか?

いやいや 決してそんなことはないのである
生きながら 至る方法は人間の生ける目的を達成したときなのであろう。

人間が生まれた理由 生きている真の目的とは 一体どこにあるのであろうか?

それが、最も重要で 解脱や悟りは濁った水を排除する目的で
本当の目的ではない。

至福に至る方向を示す 光 道 を妨げる欲というものは減ることはあっても
なくすことはできない。

肉体を持った生き物の宿命である。その前提があって初めて人の真の目的が見える。
日々人の目的を見つける努力をすべきである。




END